江戸時代における武士のミッション
関ヶ原の戦い、大坂冬の陣・夏の陣が終わって太平の世が開けると、武功によって大名に取り立てられた人が、統治能力を問われることになった。その時代の要求をよく認識した大名の代表が、初代会津藩主の保科正之である。その会津藩政の足跡としては以下のようなものがある。
- 殉死と間引きを禁じた
- 社倉制度を創設して飢餓の年にも餓死者を出さなかった
- 救急医療制度を作って旅人の行き倒れを防いだ
- 国民年金制度を導入して、身分男女を訪わず90歳以上すべてに終生1日玄米5合を支給した
この精神を継いだのが、5から7代に家老として仕えた田中玄宰(はるなか)である。
- 鯉のいない会津の川に、江戸から買った大量の稚魚を放流した
- 松茸のとれない赤松林に、奈良から土をもってきて張り付けた
- 換金性の高い朝鮮人参の栽培を奨励した
- 漆の木に戸籍を作って管理するなど、漆器産業を育成して、製品を輸出
- 上方から杜氏と麹師を招いて藩営の酒蔵をつくり、藩外に販売
現代で言えば地域産業の振興策を講じたわけだ。これが受け継がれて、漆器と酒造は現在も会津の主要な産業である。
また、会津藩は教育システムの構築にも力を入れていた。
つまり、江戸時代において武士の役割とは、地域の活力を高めて領民を豊かにすることであった訳だ。
江戸時代が、武士が特権を振りかざして他の人々を抑圧していた時代などというのは、大嘘だね。
参考:文芸春秋2006年8月臨時増刊号 私が愛する日本 56ページ