社会生物学論争

フォーサイトの8月号にウィルソンの「社会生物学」に関する記事が載っていた。
学生の頃に読んだスティーブン・ジェイ・グールドのどれかの本で、ウィルソンの社会生物学が、ほとんど感情的といっていいほど辛辣に批判されていたのを覚えている。「差別を助長するエセ学問」という感じ。どうしてそこまでグールドが執拗に攻撃するのかが理解できなかった。実はこれ、非常に有名なイデオロギー色の強い学問闘争だったらしい。当時は知らなかったわけだ。

コンラート・ローレンツ・・・・・動物の行動の進化を考察する彼の理論的枠組は、1973年当時、すでに時代遅れであった。それは、動物の行動は、「種の利益のために進化する」という群淘汰の理論である。・・・・・正しくは、動物の行動は、それをする個体の繁殖上の利益になるように進化する。・・・・・ウィルソンは、多大な努力を払って多くの論文を網羅し、群淘汰の理論ではなく、遺伝子に対して働く淘汰に基づく最新理論によって、動物の行動がうまく説明されることをまとめあげたのだった。

大きな業績を上げたわけで、この理論そのものが大きな論争の原因ではないらしい。

本書の最終章でウィルソンが、進化理論を人間の行動や心理に当てはめるとどのように分析できるのかを示し、さらに、今後はこうして進化生物学が人間の研究に応用されて行く結果、従来の人文社会系諸学は、生物学の一分野として吸収されてしまうだろう、と述べたからであった。

でもこれでは、同じ生物学者であるグールドがあそこまで批判的だった理由がわからない。その理由は、実は間違った考え方に基づいているのだ。

自然主義の誤謬」と呼ばれる誤りである。自然主義の誤謬とは、「〜である」という説明、描写から、「〜すべきである」という価値観を導くことで、それは誤りなのだ。・・・・・
社会生物学は、人間の行動の進化的考察をするが、だからといって、現状を肯定したり、それが自然なのだという主張をしたりすることはない。

批判している人たちは、社会生物学がそれを主張しているとして批判しているわけだ。科学者たるもの論理的な思考はできるはずなのに、あのグールドまでもが「自然主義の誤謬」をしてしまっているのはなぜなのだろう。

社会生物学」の出版以後、このような論争から多くの新たな研究が育っていったのだ。現在それらは、進化心理学、人間行動生態学とよばれる分野になり、国際学会も国際学術雑誌もある。・・・・・
社会生物学」の出版は、したがって、人間観や人間の研究する学問の枠組みに多大な影響を与えた。長く続き、時には悪意に満ちたやり取りがなされた論争は、さまざまな誤解や隠されたイデオロギー的動機などをあぶり出した。そして、最後には新しい学問分野を生み出した。それは、本社の大いなる航跡であると思う。


参考:フォーサイト2006年8月号 100ページ

私が考えるに、グールドは、生物学者である前に自分の倫理観に忠実であろうとしたということだろう。でも、それは、科学を一般の人に啓蒙する役割を引き受けていたグールドの立場として、正しい行動だったのかどうか、私には疑問である。
今思い返してみても、社会生物学批判の章だけは、同一人物が書いたとは思えないような違和感を覚えた自分がいる。