「CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見」を読んで

 

CRISPR(クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見

CRISPR(クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見

 
 
技術そのもの解説をきちんと理解できたとは思えないが、現段階でどのようなレベルまで遺伝子編集が可能になっているのかはよくわかった。
 
技術の発展と社会との関わり方について、原子爆弾を開発した後のオッペンハイマーの発言や行動を示して、核開発と遺伝子編集技術を並べて語っているが、この2つを対比させて考えることが果たして正当なのか、私には疑問が残る。使い方を誤れば人類を破滅に導きかねないという点では、確かに同じだろう。でも何かが違うと思う。
 
なぜそう思うのかを深く考えることは、「生き物」とか「人間」とかを私自身が暗黙的にどう定義しているのかを明確化することに繫がるような気がする。
生き物の本質は、多様性なのではないだろうか。自然界においては突然変異は基本的にランダムに発生して、その発現形がそのときの生存環境おいて有利に作用すれば生き残り、次世代に受け継がれる。
遺伝子を編集すると言うことは、生存環境の枠と、その枠内での有利不利を、編集する側が前提条件として決めていると言うことだ。前提条件を設定するのは当然人間なのだが、生存環境の変化が人間の想像を超えてしまうことはもちろんあり得る。多様性という生き物であることの本質を否定し、種をあるいは生物圏全体を、脆弱化させていることになるのではないだろうか。
 
ここまで書いた内容を振り返ると、自分が違和感をもつ遺伝子編集は、生殖細胞についてのものだけという結論になるのか。次世代に引き継がれることのないような遺伝子治療は、どんどん推進してもよいということになるのだろうか。
ある人が遺伝子治療を受けた場合に、受ける前とでは作られる生殖細胞減数分裂するもの)の遺伝子は変わってしまうのかがわからないと、その結論は出ないということになる。
変わらないと思っているんだけど、私の中途半端な知識では自信がない。
 
ところで、巻末の毎日新聞社員の解説、全く必要なし。どういう意図で入っているんだろう?